
人事評価制度を作ろうとすると、多くの会社が評価シートの様式集めから始めます。しかしこれは順序が逆です。中小企業の労働分配率は8割近い水準にあり、評価結果を賃金に反映させる余地は大企業ほど大きくありません。原資の実態を把握しないまま評価項目を設計すると、「評価は上がったが賃金は変わらない」という最悪の結果になります。この記事では、様式づくりの前に必ず済ませておくべきことを3つに絞り、公的な無料ツールの使い方まで含めて整理します。
人事評価制度とは何か:3つの制度の組み合わせで理解する
人事評価制度は単体では機能しません。実務上は、社員を序列づける等級制度、成果や行動を測る評価制度、評価結果を賃金や賞与に変換する報酬制度の3つがセットになって初めて動きます。中小企業の場合、この3つのうち報酬制度だけが基本給と各種手当という形で先に存在し、等級と評価が言語化されていないケースが大半です。つまり制度を「作る」のではなく、すでに動いている慣行を「言語化して整合させる」作業だと捉えたほうが実態に近くなります。
等級制度・評価制度・報酬制度の関係
3つの関係を1行で言うと、等級が「どの役割か」、評価が「その役割をどれだけ果たしたか」、報酬が「それをいくらに換算するか」を決めます。順番はこの通りで、等級が定まらないまま評価項目を作ると、若手とベテランを同じ基準で測ることになり、必ず不満が出ます。人事責任者としてまず社内に共有すべきなのは、この3層構造の図です。経営層が「評価制度を作れ」と言うとき、実際に求めているのは3層すべての整備であることが多く、認識をそろえておかないと後工程で手戻りが発生します。
「評価シートだけ作る」と必ず行き詰まります
評価シートから着手すると、次の3つの問いに答えられずに止まります。実務でつまずく地点はほぼこの3つに集約されます。
- 評価が最高でも最低でも、賃金はいくら変わるのか
- 職種が違う社員を、どの基準で横並びに比較するのか
- 評価結果に納得しない社員に、何を根拠に説明するのか
いずれも評価シートの中には答えがありません。答えは等級制度と報酬制度の側にあります。だからこそ着手順序が結果を左右します。まずは現状の報酬構造を把握し、次に等級を切り、最後に評価項目を作るという逆算の進め方が、限られた工数で完成させる現実的な道筋になります。
なぜいま中小企業が制度化に着手すべきなのか
「うちの規模では不要」という判断が成り立ちにくくなっています。理由は、原資、人手不足、育成投資という3つの数字に表れています。
賃上げ原資に余裕がない(労働分配率は8割近い水準)
中小企業庁の分析では、2024年度の労働分配率は小規模企業81.5%、中規模企業74.4%で、大企業の47.3%と大きな差があります。付加価値額に占める営業純益の割合も、中小企業は9.5%で、大企業の36.0%を大きく下回ります。つまり中小企業は、賃上げの余力そのものが構造的に小さい状況にあります。だからこそ、限られた原資をどこに配分するかを説明できる仕組みが必要になります。全員に薄く配るのか、成果を出した層に厚く配るのか。この判断を経営者の裁量ではなく制度で行うことが、原資が少ないほど重要になります。
出典:中小企業庁「2026年版 中小企業白書・小規模企業白書の概要」
人手不足は職種によって偏っている
同じ白書によると、中小企業で不足している職種は、専門的・技術的職業従事者が26.0%で最も高く、次いでサービス職業従事者19.8%、生産工程従事者10.5%、販売従事者9.0%、事務従事者8.9%となっています。不足の度合いが職種で異なるということは、全社一律の評価基準では人材の確保・定着に効かないということです。また中小企業の雇用者に占める非正規雇用者の割合は41.0%で、大企業の35.6%より高い水準にあります。評価制度の対象を正社員だけに限定すると、社員の4割が制度の外に置かれることになります。設計段階で対象範囲を決めておいてください。
出典:中小企業庁「2026年版 中小企業白書・小規模企業白書の概要」
能力開発への投資額は大企業の半分以下
評価制度は育成とつながって初めて定着します。ところが2023年度の従業員一人当たり能力開発費は、中小企業9,130円に対して大企業21,948円と2倍以上の差があります。OFF-JTに取り組んでいる中小企業は34.1%にとどまります。一方で効果は明確です。OJTとOFF-JTの両方に取り組んでいる企業の付加価値額増加率は中央値22.6%で、どちらも取り組んでいない企業の15.4%を上回りました。評価によって「何が足りないか」を可視化し、育成につなげる導線を最初から設計しておくことが、投資効率を高める前提になります。
出典:中小企業庁「2026年版 中小企業白書・小規模企業白書の概要
最初にやるべき3つのこと
ここからが本題です。着手順序を間違えると工数の大半が無駄になります。優先すべきは次の3つです。
①現状の賃金と手当を棚卸しする
最初の作業は、いま誰にいくら払っているかを1枚に並べることです。中小企業では手当の比重が大きく、ここを見ずに評価を設計すると必ず矛盾します。厚生労働省の調査では、2024年11月分の常用労働者1人平均所定内賃金は341.8千円で、うち諸手当が54.5千円、所定内賃金に占める諸手当の割合は15.9%でした。ところが企業規模30〜99人では所定内賃金307.0千円のうち諸手当が56.5千円で、割合は18.4%に上がります。規模が小さいほど手当の比重が高いということです。さらに精皆勤手当などの支給企業割合は規模が小さいほど高く、30〜99人で19.1%、1,000人以上では6.4%です。評価と連動しない手当が積み上がった構造のまま新制度を載せると、原資が二重になります。
出典:厚生労働省「令和7(2025)年就労条件総合調査 結果の概況(賃金制度)」
棚卸しシートに並べる5項目
棚卸しは凝りすぎないことが大切です。次の5項目を社員ごとに並べれば十分に判断できます。
- 基本給の額と、その決まり方(前例・交渉・社長裁量など)
- 手当の名称・額・支給根拠(規程に書かれているか)
- 賞与の直近3年の支給額と決定方法
- 入社年・年齢・担当職務・職種
- 同職種内での額のばらつき(最大と最小)
最後の項目が要点です。同じ職種で同程度の役割なのに額の差が大きい社員がいれば、そこが制度化で最初に解消すべき論点になります。逆に差がまったくない場合は、評価制度を入れても賃金が動かないため、報酬制度側の見直しが先になります。
②評価の目的を1つに絞る
評価制度の目的は、賃金配分、育成、配置、動機づけなど複数あります。しかし最初の制度で全部を狙うと、評価項目が増えて運用が破綻します。人事責任者が経営層と最初に合意すべきは、「今回の制度で何を解決するか」を1つに絞ることです。定着率が課題なら育成と成長実感を主目的にし、賃金の不公平感が課題なら配分の説明可能性を主目的にします。目的が決まれば、評価項目の数も評価頻度も自動的に決まります。目的が2つ以上ある場合は、初年度と2年目に分けて段階導入するほうが確実です。
③公的な職務基準を土台にする
評価項目をゼロから書き起こす必要はありません。厚生労働省は「職業能力評価基準」を公開しており、仕事に必要な知識と技術・技能に加えて、成果につながる職務行動例を業種別・職種別に整理しています。平成14年度から整備が進み、業種横断的な事務系職種を含め56業種で策定されています。さらに一部の業種には「キャリアマップ」と「職業能力評価シート」が用意され、キャリアマップ・職業能力評価シート及び導入・活用マニュアルは16業種で提供されています。ジョブ・カード制度を利用して雇用型訓練に取り組む企業向けの「モデル評価シート」や、評価の目安を示す「判定目安表(評価ガイドライン)」も公開されています。いずれも業界内の標準的な基準として設計されており、各企業でカスタマイズして使う前提になっています。
制度づくりの進め方(5ステップ)
3つの準備が終わったら、次の順で進めます。初年度は完成度より運用開始を優先してください。
- 賃金・手当の棚卸しを完成させ、原資の総額と配分可能額を確定する
- 職種ごとに等級を3〜5段階で設定し、各段階の役割を1行で定義する
- 職業能力評価基準を参照し、等級ごとの評価項目を職種別に10項目以内で作る
- 評価結果を賃金・賞与に変換する換算ルールを数値で決め、賃金規程に落とす
- 試行運用を1期行い、評価者の判定ズレと運用工数を記録して翌期に改定する
等級を3〜5段階に抑えるのが要点です。段階を増やすと昇格要件の記述量が増え、初年度で完成しません。また4番目の換算ルールを曖昧にしたまま運用を始めると、評価だけが積み上がって社員の不信を招きます。金額に落ちるところまでを初年度の範囲に含めてください。
中小企業がつまずきやすい注意点
制度そのものより、周辺の手続きと運用で止まる会社が多くあります。特に次の2点は先に手当てしてください。
就業規則・賃金規程の整備を後回しにしない
評価結果を賃金に反映させる以上、規程の整備は避けられません。厚生労働省は、常時10人以上の従業員を使用する使用者は、労働基準法第89条の規定により就業規則を作成し、所轄の労働基準監督署長に届け出なければならないとしています。就業規則を変更する場合も同様に届け出が必要です。厚生労働省は「モデル就業規則」を公開しており、令和7年12月版が最新で、Word形式とPDF形式の全体版が無償で入手できます。等級や評価に基づく昇給・降給の扱いは賃金規程に書き込む必要があるため、制度設計と並行して規程改定のスケジュールを組んでください。社員に不利益となる変更を含む場合は、手続きの適法性を専門家に確認することをおすすめします。
評価者の目線合わせを制度の一部にする
中小企業では評価者が数名しかいないため、「評価者研修は不要」と判断しがちです。しかし人数が少ないほど、一人の評価者のクセが結果全体を左右します。実際に、職業能力評価シートを活用した企業事例のなかには、若年層のスキルチェックとあわせて評価者の目線合わせ会議を開催した例が報告されています。目線合わせは年1回の会議として制度に組み込むのが現実的です。同じ社員の同じ行動を複数の評価者が採点し、差が出た項目について理由を言語化する。この1時間の作業が、評価への納得感を大きく左右します。
国内の実践事例
厚生労働省は、キャリアマップや職業能力評価シートを実際に活用した企業の取り組み事例を、スーパーマーケット業や電気通信工事業など8業種について公開しています。規模の小さい企業の例も含まれています。
小規模事業所でも公的シートは使えます
公開されている事例では、神奈川県の在宅介護業・有限会社アズサケアサービス(常勤13名、非常勤27名)が小規模事業所での職業能力評価シートの活用に取り組んでいます。ねじ製造業では東京都の株式会社平戸製作所(従業員16名)が技能チェックの仕組みを構築し、大阪府の金剛鋲螺株式会社(従業員68名)が自社版作業者検定を改良しました。電気通信工事業では東京都の東邦通信工業株式会社(約60名)が自社版キャリアマップを作成し、山形県の東北電化工業株式会社(従業員318名)が職業能力評価シートをカスタマイズして自社版技術基準を作成しています。従業員数は事例公開時点(平成24年3月または平成25年3月現在)のものですが、十数名の事業所でも運用できることが示されています。
出典:厚生労働省「企業等の取り組み事例について(職業能力評価基準)」
制度整備を人材定着につなげた事例
中小企業白書には、長野県飯田市で介護事業を運営する株式会社たまゆら(従業員160名)の事例が掲載されています。同社は結婚・出産・育児による職員の離職に直面し、子育て世代の職員から要望を聴取した上で、事業所内の託児所や休日学童保育の開設、短時間勤務が可能な柔軟な勤務制度の導入、見守りカメラによる夜勤負担の軽減などを実施しました。その結果、離職率は2005年の36.7%から2025年には11.4%まで低下し、近年は出産・育児を理由とする退職が見られなくなっています。評価制度単体ではなく、働き方の制度と組み合わせて初めて定着につながるという示唆が得られます。
出典:中小企業庁「2026年版 中小企業白書・小規模企業白書の概要」
「数字を社員に教える」ことから始めた事例
同じ白書に、埼玉県小鹿野町の金属加工メーカー・松本興産株式会社(従業員143名)の事例があります。同社は原価計算が不十分で低採算製品が発生していた状況から、「お金を掛けずにできること」として毎週の社内塾を開講し、独自の手法で決算書や限界利益の考え方を従業員に教育しました。結果として利益重視の意識が社内に浸透し、営業の見積りは勘と経験から原価積み上げ方式に統一され、赤字受注の防止と価格転嫁が可能になりました。評価制度を作る前に、社員が事業の数字を理解している状態をつくる。この順序は、成果評価を導入したい会社にとって参考になります。
出典:中小企業庁「2026年版 中小企業白書・小規模企業白書の概要」
まとめ
一から作る場合、最初の3か月でやるべきことは次の3つに絞られます。
- 賃金と手当を1枚に棚卸しし、配分可能な原資額を確定する
- 今回の制度で解決する課題を1つに絞り、経営層と合意する
- 厚生労働省の職業能力評価基準を土台に、評価項目を作る
中小企業の労働分配率は8割近く、配分の余地は限られています。だからこそ、評価シートの様式より先に原資の実態把握が必要です。まずは自社の賃金・手当の棚卸しシート1枚から着手してください。
本記事は公表統計および公的機関の公開情報を基にした一般的な情報です。就業規則・賃金規程の変更手続きや個別の制度設計については、社会保険労務士等の専門家にご確認ください。